花岡和解から西松和解へ
――中国人強制連行・強制労働「受難之碑」を「友好之碑」へ――
                       内田雅敏(2011年3月)

1. 加害と受難を記憶するための記念碑

  第二次世界大戦末期、日本は労働力不足を補うため、1942年の閣議決定により約4万人の中国人を日本の各地に強制連行し苦役を強いた。広島県北部では、西松組(現・西松建設)が行った安野発電所建設工事で360人の中国人が苛酷な労役に従事させられ、原爆による被爆死も含め、29人が異郷で生命を失った。
 1993年以降、中国人受難者は被害の回復と人間の尊厳の復権を求め、日本の市民運動の協力を得て、西松建設に対して、事実認定と謝罪、後世の教育に資する記念碑の建立、しかるべき補償の三項目を要求した。以後、長期にわたる交渉と裁判を経て、2009年10月23日に、360人について和解が成立し、双方は新しい地歩を踏み出した。西松建設は、最高裁判決(2007年)の付言をふまえて、中国人受難者の要求と向き合い、企業としての歴史的責任を認識し、新生西松として生まれ変わる姿勢を明確にしたのである。
 太田川上流に位置し、土居から香草・津浪・坪野に至る長い導水トンネルをもつ安野発電所は、今も静かに電気を送りつづけている。こうした歴史を心に刻み、日中両国の子々孫々の友好を願ってこの碑を建立する。
  2010年10月23日
                 安野・中国人受難者及び遺族
                 西松建設株式会社


 2009年10月23日、中国人受難者・遺族と西松建設との間で西松建設が加害の事実及びその歴史的責任を認め、謝罪をするとした和解が成立した。和解成立1周年を迎えた本年10月23日、中国人受難者・遺族、そして中国大使館ら、国内外から多くの関係者の参列を得て、広島県西北部の山あいの地、安芸太田町、中国電力安野発電所の一隅において二胡の音色が静かに流れる中、慰霊式と記念碑の除幕式が行われた。
  除幕された「安野 中国人受難之碑」の裏面に中文、日文二つの言語で刻まれた碑文である。加害と受難の歴史を記憶するためのものだ。
  この記念碑は、前記和解に基づき、安野・中国人受難者及び遺族と西松建設株式会社との連名によって建立された。被害者と加害者が「日中両国の子々孫々の友好を願って」と共同で建立した記念碑は、まさに和解を象徴するものである。その碑文も加害者たる西松建設が中国人強制連行・強制労働という過酷な事実を踏まえた上で、その歴史的責任を認識し、将来に向って責任をもった行動をするということを謳う前向きなものとなっている。
 私は西松安野友好基金運営委員会委員長として主催者を代表して
 「……この記念碑が安野で起きた歴史を思い起こし、平和への希望を語る場になることを願います。かつてこの地で亡くなった中国の方々、帰国後に苦難の中で亡くなった方々、また問題解決のために心血を注ぎながらもこの日を共に迎えることができなかった日中両国の方々に対し、和解によって記念碑が建立されたことをご報告いたします。中国人受難者と西松建設との和解は、記念碑建立へと歩みを進めてきました。今後さらに和解事業を推進することを通して、日中間の交流がいっそう深まり、子々孫々にわたる日中友好に寄与することを希望します。……」
 と挨拶した。 

2.中国人強制連行・強制労働
 アジア・太平洋戦争(15年戦争)が長期化する中で、日本国内では青年男子が次々と出征させられ深刻な労働力不足を招来した。政府は国家総動員法を制定して、学生ら国内の若年労働力を動員し、さらには朝鮮から朝鮮人を日本国内に「強制連行」(総計で約100万人と言われている)するなどしてこれに対処しようとした。しかし、戦局の逼迫はますますの労働力不足をもたらした。そこで42年、時の東條内閣は中国大陸から中国人を日本国内に連行し、鉱山、ダム建設現場などで強制労働に就かせることを企て、「華人労務者移入に関する件」を閣議決定し、同44年の次官会議を経て同年8月から、翌45年5月までの間に38935人の中国人を日本国内に強制連行した。
  交戦国の民衆を国内に連行し、強制労働に就かせることは国際法上許されないことである。政府はこのような批判をかわすために「華北労工協会」なるものを作りあげ、強制連行された中国人をそこを通すことによって彼らは、自由意思で日本に働きに来た契約労働者であるという体裁を作り出すことにした。しかし、政府がどのように腐心し、形式、体裁を整えようとも、その実体が強制連行であるという事実は否定することができないものであった。彼らは戦場で、あるいは町で、村で、日本軍によって否応なしに無理矢理拉致、連行されてきたのであり、契約書も見ていなければ賃金も受取っていないのはもちろんである。
 強制連行された中国人は全国35社、135事業所に配置されたが、45年8月15日、日本の敗戦に至るまでの約1年間、苛酷な労働の中で6830人が亡くなっている(死亡率17.5%)。
 強制連行された中国人中、986人が秋田県大館市の花岡鉱山に在った鹿島組(現在の鹿島建設鰍フ前身)花岡出張所に配置された。彼らは花岡川の改修工事などに従事させられたが、ろくな食事も与えられないまま、苛酷な労働を強いられ、次々と倒れていった。このような奴隷労働に耐え切れなくなった彼らは、遂に1945年6月30日、「暴動」を起こすにいたった。
このような絶望的な蜂起はたちまちのうちに憲兵隊、警察によって鎮圧され、彼ら中国人はさらに厳しい拷問を受けた。この鎮圧、その後の拷問の中で100人以上の者が殺された。
 これが「花岡事件」と呼ばれるものである。結局、鹿島組花岡出張所では強制連行されてから、日本の敗戦に至るまでの1年未満の間に、強制連行された者の約半数に相当する418人が死亡している。
 この死亡率は他の事業所と比べ異常に高い。筆者らが米国の公立公文書館で発見した「鹿島組華人労務者暴動状況ノ件」と題する報告書(昭20.7.20)がある。花岡暴動の原因について調査を命じられた当時の仙台俘虜収容所長から情報局宛になされた同報告書は、「花岡暴動」の原因、動機として労務加重、食糧不足、労賃の未払いと並んで「華人ヲ取扱フコト牛馬ヲ取扱フ如クニシテ作業中停止セバ撲タレ部隊行進中他ニ遅レレバ撲タレ彼等ノ生活ハ極少量ノ食糧ヲ与エラレ最大の要求ト撲ラレルコトノミト言フモ過言ニアラズ」と記している。    
 これらの資料は鹿島組花岡出張所での強制労働がいかに苛酷なものであったかを如実に物語っている。
 日本の敗戦によりこの「花岡事件」は連合国の知るところとなり、横浜のBC級戦犯裁判で当時の鹿島組花岡出張所長、大館警察署長らが戦争犯罪人として裁かれ、6名に対し絞首刑を含む厳しい判決が下された(しかし、その後、絞首刑は無期に減刑されるなどし、結局1955年までには全員が釈放された)。
 広島では強制連行された中国人中360人が、西松建設の中国電力安野発電所導水トンネル工事現場に配置され、昼夜二交代の苛酷な労働によって29人がこの地で亡くなった。わずか1年未満の期間に約1割が亡くなったことに過酷な労働の実態が窺われる。今回来日した遺族の1人、楊世斗氏の父楊希恩氏は、建設現場での抵抗行為により広島市に連行され、取調中に被爆死している。

4.受難者からの請求、裁判の経過
  広島安野中国人受難者及びその遺族らは、1993年8月西松建設に対し、@公式に謝罪すること、A死者を追悼し、歴史の事実を伝え、後世を教育するために、追悼碑並びに記念館を設立すること、Bしかるべき補償をなすことの3項の要求を提出した。しかし、その交渉が決裂したため、1998年1月、受難者及びその遺族ら5人が全受難者360名及びその遺族の代表となって西松建設に対し、強制連行・強制労働という不法行為を理由とする損害賠償請求の訴を広島地方裁判所に提起した。
  2002年7月9日、同地裁は中国人受難者らの被害事実を詳細に認定したが、時効と除斥期間経過を適用して、受難者らの請求を棄却した。
 2004年7月9日、控訴審である広島高裁は、広島地裁が認定した前記被害事実をそのまま認定した上で、請求を認容し、西松建設に受難者らに対し各金550万円の支払いを命ずる判決をなした。
しかし、西松建設からの上告を受理した最高裁第二小法廷は、広島高裁が認定した受難者らの被害事実をそのまま踏襲した上で、「前記事実関係にかんがみて本件被害者らの被った精神的・肉体的な苦痛は極めて大きなものであったと認められる。」と述べながらも、受難者らの請求権は、1972年の日中共同声明第5項に「中華人民共和国政府は、中日両国国民の友好のために、日本国に対する戦争賠償の請求を放棄することを宣言する。」とあることから、「日中戦争の遂行中に生じた中華人民共和国の国民の日本国又はその国民若しくは法人に対する請求権は、日中共同声明5項によって、裁判上訴求する機能を失ったというべきであり、そのような請求権に基づく裁判上の請求に対し、同項に基づく請求権放棄の抗弁が主張されたときは、当該請求は棄却を免れない。」と受難者らの請求を棄却した。
 上記判決は、前記日中共同声明第5項の解釈をなすに際して、同声明は、1951年9月8日締結(1952年4月28日発効)サンフランシスコ講和条約の枠組内にてなされたものであり、同条約第14条は「連合国は、連合国のすべての賠償請求権、戦争の遂行中に日本国及びその国民がとった行動から生じた連合国及びその国民の他の請求権並びに占領の直接軍事費に関する連合国の請求権を放棄する」、「日本国は、戦争から生じ、又は戦争状態が存在したためにとられた行動から生じた連合国及びその国民に対する日本国及びその国民のすべての請求権を放棄する」とあるように、国家の請求権でなく、被害者個別の請求権をも放棄されているのであり、前記日中共同声明第5項もこれと同じように解釈されるべきだとしている。
 しかし、これは間違いである。そもそも中華人民共和国は、サンフランシスコ講和会議から排除されており、日中共同声明がサ条約と同じ枠組にあるというのは無理がある。また、条項上も日中共同声明第5項は、「中華人民共和国は……」としているのであって、サ条約のように、「連合国及びその国民の請求権」あるいは「日本国及びその国民の請求権」となっていない。
 さらにサ条約にいう「国民の請求権の放棄」については、日本政府自身が、原爆訴訟――原爆被害者の米国に対する損害賠償権を放棄し、日本国家は戦争賠償を免れたのだから、憲法第29条3項に基づき補償すべきとする訴訟――において、放棄したのは請求権そのものでなく、外交保護権の放棄にすぎず、従って補償の責任はないと弁明していたのである。
 最高裁第二小法廷判決の翌、4月28日、中国外交部報道官も、この判決は中日共同声明を正しく理解していないと批判した。
 ところで最高裁第二小法廷判決は、前記のように受難者からの請求を棄却したものの、その付言という形で以下のように述べた。
  「なお……個別具体的な請求権について債務者側において、任意の自発的
対応をすることは避けられないところ、本件被害者らの蒙った精神的・肉体的苦痛が極めて大きかった一方、上告人(西松建設。筆者【注】)は前述したような勤務条件で中国人労働者らを強制労働に従事させて相応の利益を受け、更に前記の補償金を受領しているなどの諸般の事情にかんがみると、上告人を含む関係者において、本件被害者らの被害の救済に向けた努力をすることが期待されるところである。」
 さすがに受難者らの蒙った被害の甚大さを無視できなかったのである。そこで受難者・遺族ら及び日本側支援者らは前記最高裁第二小法廷判決を批判しつつも、他方、この付言に基づいて解決――受難生存者も残り少なく、前記判例の変更を待つ時間的余裕がない――する方策も運動論として採用し、2008年4月19日、池田香代子、石村修、内田雅敏、内海愛子、奥平康弘、鎌田慧、古関彰一、斎藤貴男、佐高信、白西紳一郎、田中宏、辻井喬、土屋公献、田英夫、土井たか子、内藤光博、弘田しずえ、古川純、前田哲男、村井吉敬、村岡久平、矢田部理、山内敏弘、水島朝穂、渡辺峯らを呼びかけ人として「西松建設・最高裁勧告の実現を求める会」を立ち上げて西松建設に対する働きかける活動を開始した。
  このような活動の結果、本和解の成立に至ったのである。

4.西松安野の和解
  2009年10月23日、西松建設中国人強制連行・強制労働損害賠償請求事件について、同社と中国人当事者らとの間で和解が成立した。
  和解成立後、西松側代理人弁護士と共同記者会見に臨んだ受難当時の生存者邵義誠氏は、和解内容に不十分性は残るとしながらも、この問題解決のために取組んだ西松建設の姿勢を評価するとともに、本和解が他の企業、日本国家による中国人強制連行問題の全面的な解決へのステップとなることを願うと声明をなした。西松側弁護士も、
 「昨年来の弊社不祥事を踏まえ、新生西松建設となるべく、過去の諸問題について見直しを続けてまいりました。その中の大きな課題として、強制連行の問題、最高裁判所判決の付言に対し、西松建設としてどうお応えしてゆくかの問題がございました。この度、和解に至りましたが、中国人当事者及び関係者のご努力に感謝します。」
と同社の コメントを発した。邵義誠氏は、同弁護士に対して、これまで闘って来たが、今日からは互いに友人となるとして、握手を求め、両者は固く握手した。文字通りの和解が成立した瞬間である。
 翌10月24日、邵義誠氏らは広島に向い、25日広島市での報告集会を経て、26日、受難した安野の現場を訪れ、花を添え、地に中国から持参した酒を垂らし、この地で亡くなったかつての仲間達に和解の成立を報告した。氏は、これまでここを訪れると当時のことが思い出され涙が流れたが、今日は嬉しい報告に来たのだから泣かないと語った。

5.事実を認め歴史的責任を認識し、深甚な謝罪
  本和解は、西松建設株式会社が申立人となって中国人被害者及びその遺族に対し、本件解決のために和解を申し出るという体裁をとっているところに特色がある。
  和解の内容は、前述した最高裁第二小法廷判決が中国人らの請求権は、1972年の日中共同声明による請求権放棄によって、「裁判上請求する権能を失った」として西松建設の法的責任を否定しつつも、「なお……、本件被害者らの蒙った精神的・肉体的苦痛が極めて大きかった一方、上告人は前述したような勤務条件で中国人労働者らを強制労働に従事させて相応の利益を受け、更に前記の補償金を取得しているなどの諸般の事情にかんがみると、上告人を含む関係者において、本件被害者らの被害の救済に向けた努力をすることが期待されるところである。」と指摘したところを踏まえてなされた(第1条)。
  以下和解内容を具体的に述べる。
 @「申立人の安野発電所事業所での労働のため強制連行された中国人360名が受難したのは、「華人労務者内地移入に関する件」の閣議決定に基づく歴史的事実(以下、「安野案件」という。)であり、申立人は、これを事実として認め、企業としてもその歴史的責任を認識し、当該中国人生存者およびその遺族に対して深甚なる謝罪の意を表明する。」(第2条)
 A「申立人と相手方らとは、後世の教育に資するために、安野案件の事実を記念する碑を建立する。建立の場所としては、土地の所有者、管理者の許諾が得られることを前提として、(中国電力)安野発電所(敷地内)を、第1の候補地とする。」(第3条)
 B「申立人は、第2条の受難者360名とその遺族等に対し、一括した和解金として金2億5000万円を支払う。この金額は、受難に対する補償に加え、未判明者の調査費用、前項の記念碑の建立費用、受難者の故地参観・慰霊のための費用、その他第2条の受難にかかわる一切の費用を含むものとする。」(第4条)
  和解成立と同時に西松建設側代理人弁護士と中国人受難者、遺族側代理人との間で後日和解条項の解釈について疑義を生じさせないために、以下のような確認書を作成した。
 「          本和解に関する確認書
  1.本和解は、申立人と相手方との間の懸案事項、すなわち、安野案件に関するものであって、他の案件、他者のことについて言及しているものではない。
  2.第1条「法的責任を否定しつつも・・・」の意味
    申立人 最高裁判決が申立人の法的責任を否定しているのは客観的事実であり、当社の見解でもある。
    相手方 最高裁判決が申立人の法的責任を否定しているのは客観的事実であるが、相手方としてこの見解を受け入れているわけではない。
  3.第2条「歴的責任を認識し」の意味
    字義どおりである。
  4.第4条「和解金」の性質
    第4条に記載のあるとおりである。
  5.第8条の解釈
    和解の法的拘束力が当事者間のみにしか及ばないことは当然である。相手方は未判明者を含め本件関係者に本和解の趣旨を徹底、説明し、信託という枠組みに参加するように働きかける責務を負うものである。
    この働きかけに応じられた方々には本和解の趣旨が拘束力をもつこととなるが、どうしても参加をされない方について、本和解がその方の権利を奪うという法的効果をもつことはない。
                        2009年10月23日
               申立人西松建設株式会社代理人
                  弁護士  高 野 康 彦
               相手方呂志剛外代理人
                  弁護士  内 田 雅 敏       」

6.基本原則を踏まえた和解
 戦後補償請求の解決をなすに際しては、
(1)加害の事実及びその責任を認め謝罪する。
(2)謝罪に見合う経済的な手当(賠償・補償)をなす。
(3)将来の戒めのため歴史教育を行う。
 の三点が不可欠である。
 この観点からすれば、本和解は前述したように第2条において西松建設が「事実を認め」「その歴史的責任を認識し」「深甚なる謝罪の意を表明」し、同第4条において、金2億5000万円の和解金を支出し、第3条において「後世の教育に資するために」記念碑を建立するとしている点で一応前記三点を充たしているといえよう。
 本和解第5条は、前項第4条の事業を行うため和解金を自由人権協会に信託することとし、同6条は、その事業の具体的遂行のために「西松・安野友好基金」及び「西松・安野友好基金運営委員会」を設置し、その運営委員会には西松建設側からも参加するとしている。
 本和解は第8条において、「本件合意は、第2条の受難者にかかわるすべての懸案を解決するものであり、相手方らを含む受難者およびその遺族が安野案件について全ての懸案が解決したことを確認し、今後日本国内はもとより他の国及び地域において一切の請求権を放棄することを含むものである。」と述べ、本件―安野に強制連行され強制労働させられた360名―全体の解決であることを謳っている。
 これは花岡和解方式と同じである。
 訴訟において原告となったのは、安野に強制連行された生存者、遺族ら5名であった。そして和解成立当時、生存者、遺族聯誼会が把握しているのは、360名中の約3分の1の120名程度であった。したがって、まだ判明していない人々をこれから探し出す作業が残っている。
 このような全体解決方式について、一部に今回の和解交渉に関与していなかった人々の分まで含めて「解決」してしまうのは、他の人々の請求権を奪ってしまうことになり許されないという批判がないわけでもない。
 しかし、本件のような歴史の問題を解決するに際しては、よりベターな選択として考えてよいのではないだろうか。
 確かに第8条の後段は以下のようになっている。
 「相手方及び利害関係人らは、受難者およびその遺族に対して、本件合意の趣旨を周知徹底させ、今後相手方ら以外の者から申立人に対する補償等の請求があった場合、第7条第5号の書面を提出した者であると否とを問わず、責任をもってこれを解決し、申立人に何らの負担をさせないことを約束する。」  
 つまり本件全体解決は、仮に将来本和解に反対の人々が出現した場合、本和解に賛同した中国人関係者らは、当の本人に対して本和解の内容を知らせ、それに応じるように説得する義務を負うことになっている。しかし、それでも当の本人が和解に応じなければそれまでであり、それ以上に責任を負うものではない(法的に負うことができない)。
 もちろん当の本人の西松建設株式会社に対する請求権を奪うものでもない。このことは本和解と同時に調印された前記「本和解に関する確認事項」5項において確認されているところである。
 本和解成立後、設置される「西松、安野友好基金運営委員会」に西松建設株式会社からも運営委員の1人が派遣されることによっても解決されていると考えることができる。

7.裁判上の和解に伴う不十分性
  もっとも第1条において、中国人当事者たちの法的請求権を否定した2007年4月27日付最高裁第二小法廷判決が、サンフランシスコ講和条約を引き合いに出し、これとは異なる日中共同声明についても同じ枠組にあるとし、同声明によって中国人らの戦争被害賠償請求権が放棄されたとしていることは到底受け入れることはできず、したがって同判決を踏まえるかのような形で本和解がなされていることについては、批判もあろう。
  また西松建設の支出する金2億5000万円につき、明確に賠償金と述べていない点などについても批判があろうとは思う。しかしこのような不十分性は、後述するように裁判上の和解――本和解は裁判の延長上のものである――が「争いをしている当事者が互いに譲歩しあってその間の争いを止めることを約することによって成立する契約」(広辞苑)である以上、やむを得ないものであると言えよう。本和解が踏まえているのは、中国人強制連行・強制労働の事実を認めた前記判決「付言」についてであり、和解内容の解釈に齟齬を生じないように交わされた前記確認書2項において述べているように、「裁判上訴求権を失われた」とする前記最高裁の見解について、中国人受難者・遺族らは受け入れているものではないことを明らかにしている。
  和解金の性質については、第4条において「受難者に対する補償に加え、未判明者の調査費用、記念碑の建立費用、受難者の故地参観、慰霊のための費用、その他受難にかかる一切の費用」と説明し、同7条の(4)においても「受難に対する補償金」としている。
  なお第1条において引用した最高裁判決の付言中に「救済」なる語も出て来るが、これは最高裁判決文をそのまま引用した結果である。「救済」という語には、施し的な意味も含まれるが(特に中国語で「救済」とした場合は、その意味合いが強い)、前記最高裁判例は、そのような意味でなく、被害の回復という意味で使用しているものである。したがって、この語を中国語に訳す場合には「救済」でなく、「補救」という語が相当である。
  大切なことは、これらの不十分性を認識しながら次の解決、すなわちかつての同盟国ドイツが2000年夏特別立法で設立した「記憶・責任・未来」財団――国家と企業が各50億マルク拠出し、100億マルク(約7000億円)の「記憶・責任・未来」財団を作り、ナチス時代に強制連行・強制労働させられた約160万人の人々に対する補償を2007年夏までに履行し終了した。――へのステップとなるように活用してゆくことではないであろうか。

8.チャンスを生かすことができたのは持続した運動があったから
  闘いが勝利するに際しては、「天の時」、「地の利」、「人の和」の三つが必要であると言われる。本和解については「地の利」はともかく「天の時」「人の和」とりわけ「天の時」があったことは間違いない。
  昨2008年秋以降、小沢一郎民主党代表(当時)に対する西松建設の違法献金疑惑が明らかとなり、西松建設は社内を牛耳っていた国沢社長が退社するなど大幅な役員人事の入替があった。
  そして同社は社内コンプライアンス(法令遵守)を確立するために社外委員会に検討を委託するなど、経営刷新に取り組んできた。そのような流れの中で、前記最高裁判決によって、同社の法的責任は否定されたと頑なな態度をとってきた西松建設は、2009年4月その姿勢を改め、一転して話し合いによる解決を、「西松建設・最高裁勧告の実現を求める会」の共同代表、田中宏一橋大学名誉教授宛に申し出てきた。
  2009年6月26日に開かれた同社の株主総会で、同社は、
   「当社が戦時中に行った広島県安野発電所への中国人強制連行・強制労働問題について2007年4月27日の最高裁判決の付言を重く受け止め、誠意をもって中国人被害者に向き合い、問題を解決すべきではないか、というご質問が事前にございましたが、新生西松として生まれ変わり第二の創業を迎えるためにも、過去の問題を今後に引きずらないという方針のもと、最高裁判決の付言に従って現在、和解に向けて弁護士を通じて話し合っております。」
 と述べた。その結果今日の和解に至ったのである。
 その意味では小沢一郎違法献金疑惑問題が、本件解決の一つの契機となったのは、「天の時」があったからであり、小沢一郎に対する違法献金問題なくしては、本和解解決はなかったと言える。
 しかし、ここが大事なところであるが、今回の「天の時」というチャンスを解決に結びつけることが出来たのは、中国人関係者はもとより、広島そして東京での日本人支援者らによる西松中国人強制連行・強制労働問題の解決を求める10数年にわたる持続した運動、及び請求は棄却したが、受難者らの蒙った被害を詳細に認定した広島地裁判決、そして最高裁で破棄されたとはいえ、前記付言を引き出した広島高裁での勝訴判決があったからである。例え、解決の「チャンス」が訪れたとしてもそのチャンスを生かし、結果を導き出す持続した運動がなければ「チャンス」はそのまま通りすぎてしまったであろう。
 広島を中心とした「中国人強制連行・西松裁判を支援する会」は、花岡事件解決を求めている「中国人強制連行を考える会」などの他の団体の人々の協力を得て、10数年にわたって裁判支援、そして東京本社、広島支社に対する申し入れ、社前でのビラ撒き、株主総会での質問などを粘り強く続けてきた。株主総会への出席回数も2009年で10回に達していた。

9.青島で和解報告集会
  「今日の成果に満足している。父は先月亡くなったばかり。生きていたらどんなに喜んだことだろう。頭を下げていないので、金額の多少にかかわらず、民族の尊厳が守られた」(孟現憲39歳/孟昭恩の遺族・息子)
 和解の成立を受けて、11月1日、2日と中国青島市内のホテルで説明会を開いた。急な連絡であったにもかかわらず、当事者81人(うち生存者5名)、付添いの人も入れて約100名が参加した。中には遠く山西省や南京から駆けつけた人もいた。日本からは筆者と広島から支援する会の川原洋子氏が参加した。
  1日目は、午後3時から6時30分まで筆者が和解成立の経緯、内容その意義等について説明し、次に川原氏が1992年から和解成立に至るまでの長年にわたる活動の経緯を説明し、和解への参加を呼びかけた。次いで、聯誼会会長の邵義誠氏が挨拶をし和解への参加を呼びかけた。
  参加者による質疑応答、意見表明に際しては、会場から16名もの人々が立ち上がって次々と意見を述べた。
  冒頭に記したのは、当日会場からなされた発言の一つである。他の発言も紹介しよう。        
 「他の被害者と同じ気持ちだ。心残りの問題を解決してくれた。劉宝辰先生や弁護士や日本の友人に感謝する」(甘明友54歳/甘文瑞の遺族・息子)、「93年から16年間、積極的な努力によって獲得した。私の予想より満足できる結果である。民族のために恨みをはらすことができた」(  淑恵76歳・南京/  述寛の遺族・姪)、「日本の友人や劉宝辰先生の努力によって和解ができた。だから満足している。謝罪もあるし、碑も建立できる。母といっしょに来た」(成文学56歳・山西省/成殿元の遺族・息子)、「劉宝辰先生、王彦玲さんに感謝する。日本の弁護士、友人に感謝する。父の要求は全部実現できた。(自作の詩を朗読)」(呂志英/呂学文の遺族・娘)、「(父親から聞いた安野での体験を話してから)想像を絶する苦難で、よく命を拾って帰ってきたと思った。和解のことを家に帰って、父に伝えたい。感謝する。」(楊/楊済雷の家族・娘)、「非人間的な扱いを受けたことを考えると、和解には賛成できない。しかし、93年から努力をしてきたのだし、現在、生存者が19人だと聞いたので、老人たちが残念な気持ちで死んでいくのを見たくない」(石世鋒/石道海の遺族・孫)、「父はとても喜んでいる。死んだ人も多く、複雑な気持ちだ。謝罪と碑を認めさせ、補償金も支払われるので、尊厳を取り戻すことができた。4万人の解決にも役立つ」(于啓 44歳/于清杰の息子)、「知らせを受けて感動した。祖父は帰国後2年で亡くなった。和解が実現できてうれしい。実現できなかったとしても感謝する。要求は金額の多少ではない。謝罪させ碑ができることが重要である」(王煥廷/王民立の遺族・孫)、「母は83歳である。生きているうちにいい結果を見せることができてうれしい」(女性)。
 その後、司会者が和解に賛成の人に挙手を求めたところ、参加者全員が手を挙げて和解に賛成した。
  そして、休憩時間を使って参加者らに対し、青島テレビ、天津テレビ、半島都市報、済魯晩報のほかラジオ局2社よりインタビューがなされ、中国駐在の共同通信と朝日新聞の記者らも取材した。
  筆者も中国側メディアから取材を受けたが、若い記者らが一様に尋ねたことは、何故日本人が中国人の問題にこのように関わってくれるのかという疑問であった。この疑問に対して筆者は、これは歴史の問題であり、中国人受難者のためだけでなく、この問題を解決することによって、日本社会が変わることになり、筆者ら自身のためでもある。したがって、この件に関しては、弁護士費用はもちろんのこと、これまで費やした実費分も受取らないと述べた。報酬だけでなく、実費分についてもとしたのは、この種の問題は、弁護士以外に熱心な支援者の存在が不可欠であり、本件に関しても日・中両国の支援者らが長年にわたって運動を支えて来ており、その過程で相当額の実費を支出している。したがって、弁護士の実費分だけを特別扱いすることはできないのである。これらの説明は中国メディアの若い記者らを必ずしも納得させるものではなかったようだ。
 翌11月3日、半島都市報は、この集会の内容を写真入りで1頁を使って報道したが、その記事中に「律師費一分銭也不収 訴訟案背后有群黙黙奉献的志愿者」の小見出しもあった。
 
10.花岡和解の延長上の西松和解……失われた9年間
  西松中国人強制連行・労働事件和解は、同種事案で9年前の2000年11月29日東京高裁(新村正人裁判長)で成立した鹿島建設花岡事件と同じ枠組み――企業として加害の事実及び責任を認め、986人全員に対する和解金として金5億円を支払う――で、同和解の延長上でなされたものとみることができる。
  花岡事件和解が成立してから9年後の2009年10月23日、西松建設中国人強制連行・強制労働事件の和解が花岡和解と同じ枠組みで成立したことについては感慨深いものがある。
 花岡和解は次の解決の段階――前述した『記憶・責任・未来』財団を作りあげたドイツの例など――に向けてのステップとして、中国の被害者・遺族や関係者から歓迎された。
 花岡和解が契機となって、今後の戦後補償請求裁判に大きな進展を見ることが期待された。事実、この和解を受けて、他の類似の戦後補償裁判において、原告勝訴の判決――東京地裁劉連仁事件判決、福岡地裁中国人強制連行・労働事件判決、新潟地裁同判決、広島高裁西松建設事件判決等原告勝訴の判決が相次いだ。もっともこれらの判決はいずれもその後上級審で破棄された。その後は、2004年9月29日に成立した日本冶金鉱業、いわゆる大江山訴訟の和解を除いては、期待された進展を見ることができなかった。その理由の一つに花岡和解に対する批判があった。
  2000年11月29日東京高裁で成立した花岡和解は、鹿島建設は、「中国人が花岡鉱山出張所の現場で受難したのは、…強制連行・強制労働に起因する歴史的事実であり、鹿島建設はこれを事実として認め、企業としてもその責任があると認識し、当該中国人及びその遺族に深甚な謝罪の意を表明する」とした鹿島建設と中国人受難者聯誼会がなした1990年7月5日の共同発表を再確認することから始まっている(和解条項第1項)。
  ところが和解当日、鹿島建設は同社の責任を認めた前記再確認にもかかわらず、同社のホームページにおいてこれを否定するかのような発表をなした。このホームページの記載は、後に中国人関係者らの抗議によって削除されたが、確かに中国人関係者の気持を逆なでするものであった。
  鹿島建設がホームページにこのような和解の趣旨に反するかのような記載をなしたのは社内における和解反対派、業界他社に対する配慮があったと推測される。
  和解はあくまでも和解文書によって完結しているのであり、「鹿島建設株式会社はこれ(強制連行・強制労働。筆者【注】)を事実として認め、企業としてもその責任があると認識し当該中国人生存者及びその遺族に対して深甚な謝罪の意を表明する」という同社の事実認識・責任表明は、前記のホームページの記載によって何ら変るものではなかった。
  なお和解条項第1項には「ただし、被控訴人(鹿島建設、筆者【注】)は、右「共同発表」は被控訴人の法的責任を認める趣旨のものではない旨主張し、控訴人(中国人受難者・遺族、筆者【注】)らはこれを了解した」と付されているが、これはあくまでも鹿島建設側の見解として両論併記的に記されたものである。「責任」の理解についての両論併記は後の西松和解でも同様である。ちなみにドイツの「記憶・責任・未来」財団も法的責任を認めているわけではない。
  しかしながら、中国側、日本側の一部の人々が鹿島建設の前記ホームページの一文をもって、鹿島建設は中国人受難者・遺族を欺したと花岡和解を全面的に否定する論を声高に主張した。そしてこれに煽られて中国人受難者・遺族の中にも一部ではあったが、この声に同調する人達も現われた。
 誠に残念なことであった。確かに鹿島建設のホームページの記載は批判されるべきであった。しかし、それを直ちに花岡和解の全否定――鹿島建設は中国人を欺した――としてしまうのは、余りにも短絡的発想であった。あらゆる運動に付きものの原理主義の弊を思わざるを得ない。
 前述したように、鹿島建設がホームページに和解の文言に反するような記述をなしたのは、社内における和解批判派、業界他社に配慮したものであると推測されるが、それは突き詰めれば戦後補償問題をめぐる日本の闇の深さであった。現に、今日に至るまで日本国家はこの問題について解決しようとはしていない。
 したがって花岡和解に際しては、鹿島建設に対しては中国人を欺したと責め立てることでなく、ホームページ記載に抗議しつつも、同社に花岡和解の本旨に沿う行動を取るべく求め、更には業界に対する働きかけをなすよう求めるべきであった。そうすることによって、花岡和解がこの問題をめぐるドイツ型財団――記憶・責任・未来財団――による解決へのステップとなり得る可能性があった。
 しかしそうはならなかった。漏れ聞くところによると、本件西松建設も広島高裁で和解解決を勧められた際に、密かに鹿島建設に問い合わせたところ、鹿島建設の回答は、和解はしたが事態は変らなかったと言われ、和解に応じないことにしたとのことである。筆者はこのような事態は大変不幸なことであったと思う。
 9年前の2000年11月29日、鹿島建設は社内に反対がありながらも一応の決断し、他社に先駆けて企業としても強制連行・強制労働の事実を認め、責任を認識し、深甚な謝罪をなした。戦後補償に取り組む関係者らがこれを正当に評価し、前記ホームページの記載に必要以上に過敏にならない態度を取っていれば、事態は少しは変っていたのではないかと考えるのは、筆者の思い込みに過ぎないであろうか。
 今、戦後60余年を経て、補償請求における受難当事者がほとんど亡くなってしまっていることを思うとき、失われた9年の持つ意味は大きい。今度こそこの西松建設和解を契機として、中国人強制連行・強制労働問題のドイツ型財団による全面的な解決に向けた努力がなされなければならない。
 西松安野和解成立の翌日の2009年10月24日、秋田県大館市でNPO花岡記念会によって建設が進められてきた花岡平和記念館の竣工式が行われ、翌2010年4月17日開館式が行われた。市民達の手によって建てられた加害と受難の歴史を記憶するための記念館だ。同年4月26日には、西松建設信濃川ケースでも和解が成立した。
   
11.各判決の「付言」に見る裁判官の苦悩
  ところで前記西松最高裁判決の「付言」」は初めてのものではなく、古くは台湾人元兵士が日本の軍人・軍属であった者と同じように戦傷病者戦没者遺族等援護法の適用を求めた裁判において東京高裁は台湾人元兵士らの請求を棄却しながらも「国は立法を急げ」と付言をなし、この付言が契機となって立法により、一定の解決が図られたことがあった。
 受難者・遺族らの請求を退けた本件第一審、広島地裁(矢延正平裁判長)判決もその末尾において以下のように述べた。
   「長年にわたり不本意ながら権利行使の道を事実上閉ざされていた事情等をも合わせ鑑みると、その無念の心情は察するに難くないが、前記判示のとおり被告の法的責任は消滅したものと解するほかはない。もっとも、法的責任は消滅しても、道義的責任が消滅する理由はないから、道義上の観点からすれば、ドイツの企業連合による強制労働賠償基金の設立やいわゆる花岡事件における和解等は、本訴との関係において示唆に富む。また、本訴口頭弁論期日において証人田中宏(龍谷大学経済学部教授)がその証言の際に表明した関係被害者に対する救済、慰藉、鎮魂のための措置に関する提言も傾聴に値する。」
  7年前の2002年7月9日付の判決である。他にも同種強制連行・強制労働事件で裁判所が中国人受難者らの請求を棄却しながらも、被害の回復のために、国に措置を求めた判決はいくつかある。そのうちのいくつかを東京弁護士会所属松岡肇弁護士のまとめにより紹介しよう。
@ 2006(平成18)年3月10日、長野地裁(辻次郎裁判長)は、判決言渡後、口頭で以下のように述べた。
   「平成9年12月提訴から8年かかったことを、まずはお詫びします。次に、和解について成立できなかったことを残念に思い、お詫びします。
    自分は団塊の世代で全共闘世代に属するが、率直に言って私たちの上の世代の人たちは随分ひどいことをしたという感想を持ちます。
    裁判官をしていると、訴状を見ただけでこの事案は救済したいと思う事案があります。この事件もそういう事件です。1人の人間としては、この事件は救済しなければならない事件だと思います。心情的には勝たせたいと思っています。しかし、どうしても結論として勝たせることができない場合があります。このことには個人的葛藤があり、釈然としない時があるのです。最高裁の判決がある場合には、従わざるを得ません。判決を覆すにはきちんとした理論が立てられないとやむを得ません。この事案だけに特別の理論を作ることは、法的安定性の見地からできません。
    この事件は事実認定をしなくても判決は書けますが、この事件で事実認定をしないことは忍びないので、事実認定をすることとしました。本件のような戦争被害は、裁判以外の方法で解決できたらと思います。」
A 2007(平成19)年3月26日、宮崎地裁(徳岡由美子裁判長)判決
   「このように、被告らの法的責任は時の経過により消滅したと言わざるをえないものであるが、当裁判所の審理を通じて明らかになった本件強制連行・強制労働の事実自体は、永久に消え去るものではなく、祖国や家族らと遠く離れた異国宮崎の地で原告らが当時心身に被った深刻な苦痛や悲しみ、その歴史的事実の重みや悲惨さを決して忘れてはならないと考える。そして、当裁判所の認定した本件強制連行・強制労働の事実にかんがみると、道義的責任あるいは人道的責任という観点から、この歴史的事実を真摯に受け止め、犠牲になった中国人労働者についての問題を解決するよう努力していくべきものであることを付言して、本件訴訟の審理を締めくくりたいと考える。」
B 2007(平成19)年8月29日、前橋地裁(小林敬子裁判長)は、判決言渡し後、口頭で以下のように述べた。
   「原告らは、敵国日本に強制的に連行され、劣悪で過酷な労働により被った精神的・肉体的な苦痛は誠に甚大であった。原告らの請求は、日中共同声明第5項に基づいて棄却せざるを得ないが、最高裁判決も述べるとおり、サンフランシスコ平和条約のもとでも原告らの請求に対して債務者側が任意に自発的に対応することは妨げられないのであるから、被害者らの被害の救済に向け自発的な関係者による適切な救済が期待される。」
C 2009(平成21)年3月27日、福岡高裁宮崎支部(横山秀憲裁判長)は、判決言渡し後、口頭で以下のように述べた。
   「事案が人道に関する深刻なものであり、請求権が放棄されたと判断されるとはいえ、関係者の道義的責任を免れないものであり、このことは平成19年4月27日の最高裁判所判決及び福岡高裁の和解所見にも示されたとおり、被害弁償によって解決すべきであると判断したものであります。
   当裁判所も和解に向けた努力をして参りましたが、現在に至るも解決するに至らず、判決することになりました。
   今後とも、関係者の和解に向けた努力を祈念するものであります。」
D 本件和解成立後の2009(平成21)年11月20日山形県酒田港中国人強制連行・強制労働事件について仙台高裁(小野定夫裁判長)判決は、中国人被害者らの請求を棄却したが、その末尾において
   「なお、本件訴訟において、本件被害者らは強制労働により極めて大きな精神的・肉体的苦痛を被ったことが明らかになったというべきであるが、その被害者らに対して任意の被害救済が図られることが望ましく、これに向けた関係者の真摯な努力が強く期待されるところである。(下線・筆者)」
 等々である。
  被害の重大さを認識しながらも、法や最高裁判例の制約の中で心ある現場の裁判長達もまた苦悩していることが分かる。福岡高裁宮崎支部の横山秀憲裁判長と私は司法研修所(27期)で同じクラスであった。
 もっとも前記@、Aのケースは、2007年4月27日の最高裁第二小法廷判決の前のものであるから、裁判官が勇気を持てば、後述するような論理で原告勝訴の判決を書くことは可能であった。
  2004年7月9日、広島高裁は本件西松建設中国人強制連行・強制労働事件について、正義・公平・条理に基づき、被告西松建設が消滅時効を主張することは著しく正義に反するとして退け、中国人受難者らの損害賠償請求を認めた。この判決は最高裁で破棄されたが、被害の重大性ということから前記「付言」を引き出したことはすでに述べたところである。
  要は裁判官のやる気であり、受難者達の蒙った肉体的、精神的被害を少しでも癒すために裁判所として何ができるかということを、全人格をかけて模索することではなかろうか。前述したように2000年11月29日、東京高裁で鹿島建設花岡事件について和解が成立したが、このときの裁判長(現在弁護士)も花岡和解に続く西松和解を大変喜んで下さった。2年前の2008年夏、氏から以下のような心暖まるお手紙を頂いた。
  「暑中お見舞い申し上げます。
  八月に入り終戦の日も近く、何かとお忙しくお過ごしのことと存じます。…………
  ところで、さきの週末七月二六日から二七日にかけて東北に行く機会があり、花岡に行ってまいりました。花岡事件の解決に微力ながらお役に立ったことは、私の長い裁判官生活の中で特に強い印象を残し、一度花岡を訪ねたいという気持を強くしておりました。ただ、現役中は、当事者の一方に肩入れするように見える行動は慎まなければならないと考えておりました。しかし、今は在野の一介の弁護士にすぎないので、そのような配慮は無用となり、実はこの八月の手の空く時期に花岡訪問を実現しようと、かなり前から考えておりました。
  たまたま六月に叔母が亡くなり、七月二六日に四十九日の法要が山形県の鶴岡市内で行われることになり、出席を検討する過程で、この二つの用務を一度で済ませようと思いつきました。
  大館から先の花岡は多分不便なところであろうと考え、車で行くことにし、鶴岡で一泊して翌日早く発てば、私の運転でも昼過ぎには花岡に着くだろうと勝手な予想を立てて、実行することにしました。実際には二七日午前七時五〇分に鶴岡のホテルを出発し、花岡の十瀬野公園墓地に着いたのは午後二時三〇分でした。途中、奥の細道で有名な象潟で古人の事跡に思いを寄せたり、昼食の時間を休憩のため長めに取ったりしたこともあって、予想を超える時間を要しました。
  中国殉難烈士慰霊之碑に詣で、途中で求めてきた花束を供え、持参の三脚を用い、セルフタイマーで写真を撮りました。ふと思いついてスケッチブックの画紙一枚を剥ぎ取り、感懐を記し、花束に添えて置きました。碑の背後に一本の白百合の大輪が満開なのが印象的でした。あっという間に小一時間を過ぎ、三時半ころ辞しました。信正寺の日中不戦の碑も訪ねたかったのですが、先を急ぐため割愛しました。
  四時二〇分ころ十和田ICから東北自動車道に入り、一路東京に向かい、二〇分ほどの仮眠を二回取り、わが家に帰ったのは深更、翌二八日午前一時五〇分でした。二日間で約一五〇〇q走ったことになります。
  書き遺した紙片の文面は、次のようなものです。
  『縁あって花岡事件に関わり、爾来一度この地を訪れようと心に決めていました。本日慰霊の碑の前に立ち、宿願を果しました。粛然たる思いで花束を捧げます。
     平成二十年七月二十七日
                          新村正人 』
  その場で思いつき書き記したものですが、この一文が私の心境のすべてを言い尽くしています。日曜日でなければ大館の市役所に寄って、どなたか事情を知る方に挨拶することもあり得たことですが、それもかなわぬため、訪れたことの証しを現場に残しておきたいとふと考えたのでした。
  今ごろは、雨に打たれ、風に飛ばされてしまっているでしょうが、それでいいように思います。先生には御報告しておきたいと思って記しました。…                                             敬 具 
   八月二日
                             新村正人
  内田雅敏  様                          」 

 花岡事件和解成立の際、新村裁判長は以下のような所感を述べた。
「……控訴審である当裁判所は、このような主張の対立の下で事実関係及び被控訴人(鹿島建設、筆者注)の法的責任の有無を解明するため審理を重ねて来たが、控訴人(中国人受難者・遺族、筆者注)らの蒙った労苦が計り知れないものであることに思いを致し、被控訴人もこの点をあえて否定するものではないであろうと考えられることからして、一方で和解による解決の途を探ってきた。そして、裁判所は当事者間の自主的折衝の貴重な成果である「共同発表」に着目し、これを手がかりとして全体的解決を目指した和解を勧告するのが相当であると考え、平成11年9月10日、職権をもって和解の勧告をした。
 広く戦争がもたらした被害の回復の問題を含む事案の解決には種々の困難があり、立場の異なる双方当事者の認識や意向がたやすく一致し得るものでないことは事柄の性質上やむを得ないところがあると考えられ、裁判所が公平な第三者としての立場で調整の労をとり一気に解決を目指す必要があると考えたゆえんである。
 裁判所は、和解を勧告する過程で折に触れて裁判所の考え方を率直に披瀝し、本件事件に特有の諸事情、問題点に止まることなく、戦争がもたらした被害の回復に向けた諸外国の努力の軌跡とその成果にも心を配り、従来の和解の手法にとらわれない大胆な発想により、利害関係人中国紅十字会の参加を得ていわゆる花岡事件について全ての懸案の解決を図るべく努力を重ねてきた。過日裁判所が当事者双方に示した基本的合意事項の骨子は、まさにこのような裁判所の決意と信念のあらわれである。
 本日ここに、「共同発表」からちょうど10年、20世紀がその終焉を迎えるに当たり、花岡事件がこれと軌を一にして和解により解決することはまことに意義のあることであり、控訴人らと被控訴人との間の紛争を解決するというに止まらず、日中両国及び両国国民の相互の信頼と発展に寄与するものであると考える。裁判所は、当事者双方及び利害関係人中国紅十字会の聡明にしてかつ未来を見据えた決断に対し、改めて深甚なる敬意を表明する。」
 聴く者の心を打つ所感である。

  西松安野広島高裁勝訴判決をなした鈴木敏之裁判長(当時)についても語ろう。同裁判長は、同判決が最高裁で破棄されたことを大変残念に思っていたが、今般の和解をことのほか喜んで下さった。そして西松裁判を支援する会発行の文書に一文を寄せてくれた。その要旨を記しておく。
  「……高裁判決に携わった者として何か少し書いてもらえないかとの打診を受け、若干躊躇するところはありました。しかし、筆者らが関わった判決は、既に過去の歴史的事実として公にされていることですし、この間の推移に強い関心を持ってきた者の一人として、差し支えない範囲で正直な思いを少しだけ吐露し、多少でもお役の立てたらと考え、若干の感想を述べさせて頂くことにしました。
  事件に対する筆者らの認識や思いといったものは、あの高裁判決にかなり正直に表われていると思いますので、ここで繰り返し申し上げるつもりはありません。…控訴審での実質的な最大のテーマの一つが、安全配慮義務違反に基づく損害賠償権についての消滅時効の援用が権利濫用に当たるかどうかにあると考えられたので、この点については、特に慎重を期し、これに関する事実関係を徹底的に把握すべく努めたつもりです。そして、完成した判決を前にして、筆者らは、少し大げさに言えば、なし得ることはすべてなし終えたという達成感、充実感を持ち合い、歴史に残る判決に関わっているとの自負と高揚感を共有し合ったものでした(両陪席裁判官や関係職員、特に主任裁判官の苦労が尋常なものでなかったことは、言うまでもありません)。最高裁であのような理由で破棄されるとはおよそ予想していなかったというのが正直なところでした。あの最高裁の破棄理由については、国際法学者をはじめとして多くの識者の間で色々議論されているところでもありますが、その点はともかくとして、筆者らの判決は、あの破棄理由の点を除いては、事実認定についても理由付けについても、最高裁によってことごとく支持して頂いたものと自負しています。それが、単なる筆者らの強がりといったものでないことは、あのような「付言」がなされたことからも明らかではないでしょうか。そして、「付言」を契機として、和解に向けた地道な努力が継続され、ついに成立に漕ぎ着けたものであることがその後の資料等から知ることができましたが、そこに至るまでの関係社のご努力、ご尽力には頭が下がります。和解条項も等も拝見致しましたが、周到な配慮がなされた素晴らしい内容のものであることに感銘を受けました。控訴審で代理人として尽力されながら、「付言」、これに基づいた「和解」の成立も知らないまま、志半ばで逝かれた新美隆弁護士に思いを馳せるのは筆者だけではないと思います。つい先日には、同じく西松建設新潟信濃川ケースでも同様の和解が成立したようです。戦後補償問題の解決がさらに一歩前進したことを喜ぶとともに、歴史的な事件の裁判に関わることができたことを誇りに思うこの頃です。」

12.戦争被害の賠償はすぐれて政治的な問題
 もともと戦争被害の賠償をめぐる問題を裁判で争うということを法は予定していない。それはすぐれて政治的な問題であり、本来、国が政策的に解決すべきである。しかし、戦後冷戦下で「自由主義」陣営の一員として米国の核の傘の下に入り、「平和」憲法を持つことによって戦争賠償の問題を放置してきた我が国は、1989年冷戦崩壊後、顕著となったアジア諸国の人々からの戦後補償の請求に対し、サンフランシスコ講和条約により解決済みとして頑なにこれを拒み続けてきた。
  政治が解決しない以上、司法による救済を求める他ないとして、従軍慰安婦、強制連行・強制労働、無差別爆撃、毒ガス・細菌戦、軍票、等々、日本のアジア侵略による被害者らが直接日本政府や企業に対する補償を求め、直接日本の裁判所に提訴した。
  その結果、鹿島建設花岡事件、日本冶金大江山事件など和解によって解決する事例はあったものの、前述した2007年(平成19年)4月27日、最高裁第二小法廷、西松建設中国人強制連行・強制労働事件判決が中国人受難者らの請求は、1951年締結のサンフランシスコ講和条約、及び1972年の日中共同声明によって放棄されており「裁判上訴求する権能は失われた」と判断したことによって、国家無答責、時効、除斥期間などの戦後補償問題をめぐる壁を、違法な行為をなした日本国家がその責任を免れるために、これを援用するのは著しく正義に反するとした勇気ある裁判官らによって積み重ねられて来たこれまでの原告勝訴の判例(劉連仁事件・東京地裁判決、新潟港中国人強制連行・強制労働事件・新潟地裁判決、同訴訟・福岡地裁判決、西松建設中国人強制連行・強制労働事件・広島高裁判決等)は、すべて覆されてしまった。
  前述したように、前記2007年4月27日最高裁第二小法廷判決は、歴史的経過を正しく把えたものでなく、不当なものであり、破棄されるべきである。そのための裁判闘争は引続きなされるべきであることは当然である。しかし、他方、戦後補償請求は、時間との闘いであり、戦後60余年を経た今日、当時の受難者の大部分、いやほとんどが亡くなっているという実情を見るとき、裁判以外の方法による解決もまた図られるべきである。
  今般の西松建設との和解解決も前記最高裁判決の付言を生かしてなされた。2008年夏、最終的に国が応じなかったために和解は成立しなかったが、同じく中国人強制連行・強制労働問題で訴訟を提起されていた三菱マテリアル社は、裁判所の和解勧告に応ずる姿勢を見せた。ところが相被告の国が頑なに拒否する態度を崩さなかったために、和解は成立しなかった。
  その意味で、この問題の解決に向けて、大きく進展するためには主要な責任者である国の態度が極めて重要である。
  前記西松建設最高裁判決付言は、「上告人(西松建設、筆者注)も含む関係者において本件被害者らの被害の救済に向けた努力をすることが期待されるところである」としている。この「関係者」中に直接の加害当事者である日本国が含まれているのは、当然である。
  1995年8月15日、戦後50年の節目に際し、村山首相(当時)が国内外に発し、その後も歴代の政権によって踏襲され、国是とされているいわゆる村山首相談話もこの点について、「私たちは過去のあやまちを二度と繰り返すことのないよう、戦争の悲惨さを若い世代に語り伝えて行かなければなりません。特に近隣諸国の人々と手を携えて、アジア・太平洋地域ひいては世界の平和を確かなものとしていくためには、なによりもこれらの諸国との間に深い理解と信頼にもとづいた関係を培っていくことが不可欠と考えます。政府は、この考えにもとづき、特に近現代における日本と近隣アジア諸国との関係にかかわる歴史研究を支援し、各国との交流の飛躍的な拡大をはかるために、この2つを柱とした平和友好交流事業を展開しております。また、現在取り組んでいる戦後処理問題についても、わが国とこれらの国々との信頼関係を一層強化するため、私は、ひき続き誠実に対応してまいります。
 いま、戦後50周年の節目に当たり、われわれが銘記すべきことは、来し方を訪ねて歴史の教訓に学び、未来を望んで、人類社会の平和と繁栄への道を誤らないことであります。
 わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。私は、未来に過ち無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持を表明いたします。」と述べているところである。もう、これ以上政治の怠慢は許されない。

13.和解から友好へ
  「和解」という語を広辞苑で引くとつぎのように解説されている。
 @ 相互の意思がやわらいで、とけあうこと、なかなおり。
A 〔法〕争いをしている当事者が互いに譲歩しあって、その間の争いを止めることを約することによって成立する契約。示談。
  本来和解というからには、@の意味が望ましいことはもちろんである。しかし、裁判上の和解というのはAの意味である。本西松和解もそうであった。しかし、中国人強制連行・強制労働問題は、一般の民事事件と異なる歴史の清算の問題であり、その意味ではかぎりなく広辞苑にいうAに近づくものでなければならないことはもちろんである。
  「安野 中国人受難之碑」の除幕式で、当時の生存者邵義誠氏は受難者・遺族を代表して「故郷を遠く離れ、祖国を遠く離れた異国の地に、かつて強制連行され非人間的な労働を強いられた地に、ついに真実の歴史を刻んだ記念碑が建立されました。……敢然と歴史的責任を認めて実際の行動で謝罪した新生西松建設に敬意を表します。……私はここで、生きている安野の受難者と遺族を代表して、亡くなった労工たちの天国の魂に報告したいと思います。あなたたちがかつて非人間的な労働をした地に記念碑が建立され、あなた達の名前も碑に刻まれて、この緑の山、青い水と共に永遠に存在し続けます。」と述べた。
 西松建設も「『安野 中国人受難の碑』除幕式が執り行われるに当り、西松建設を代理いたしまして広島の地で亡くなられた方々に心より追悼の意を表します。同時に、昨年10月に成立の和解に基づき、碑の建立にご尽力された自由人権協会、建立にご理解、ご協力を頂いた中国電力株式会社、安芸太田町を始め関係各位の皆様に深甚なる敬意と感謝の意を表します。当社は、ここに改めてその歴史的責任を認識し、安野における360名の受難者およびその遺族に対して深甚なる謝罪の意を表明致しますとともに、和解に基づき建立されました『安野 中国人受難之碑』が日中友好協力関係のさらなる発展に寄与せんことを祈念致します。」と挨拶した。
 和解成立1年後、加害者と被害者の連名によって、このような記念碑が建立されたことは和解の内容を一歩進めた、すなわち言葉の正しい意味での和解に近づいたことを意味する。
 強制連行・強制労働という中国人受難の歴史を刻んだこの記念碑の建立に際しては、そのための敷地を無償で提供してくれた中国電力株式会社、そしてその敷地の引受人となってくれた地元安芸太田町、及び坪野部落の人々、そして善福寺(安野で亡くなった中国人の遺骨を日本の敗戦後預っていた)らの大きな協力があった。
 除幕式に出席した安芸太田町長は、「戦争という誠に不幸な事態の中で、異郷の地にて多数の尊い命が失われました。心からご冥福をお祈りいたします。……この記念碑が、歴史を後世に伝え、日中両国の今後の友好の礎となることを期待してやみません。戦後、我が国は、世界の恒久平和を深く念願し、国際平和の確立に努めてきました。現在の日中関係の出発点となった1972年の日中共同声明の前文において、『日中両国は、一衣帯水(いちいたいすい)の間にある隣国であり、長い伝統的友好の歴史を有する』と日中関係を表現しています。それから30年余り、両国の関係は、歴史、文化等幅広い分野等で交流が深まっています。私たちは、今、あらためて受難者の皆様に思いを致し、その尊い教訓を深く心に刻み、不幸な歴史を再び繰り課すことのないよう、より一層、日中両国の平和友好に努力してまいります。」と「追悼のことば」を述べた。

14.「受難之碑」を「友好之碑」へ
 もとより「安野 中国人受難之碑」の建立は、建立によって完結するものでなく、和解条項第3条に「後世の教育に資するために」とあるように、その維持管理を通じて若い世代に受難と加害の歴史を伝えて行く作業が不可欠である。西松建設もこの作業に関与することによって、真の和解に近づくことができる。ビラ配り、要請行動はもちろんのこと、自ら株主となって株主総会でもこの問題の解決を訴えるなど、10数年に亘って中国人受難者・遺族らの西松建設に対する賠償請求を支えて来た「中国人強制連行・西松建設裁判を支援する会」は、和解成立を契機として解散し、新たに「広島安野・中国人被害者を追悼し、歴史事実を継承する会」を立ち上げた。
 中国人受難者らの掘った導水トンネルが現在も使われ、安野発電所が「今も静かに電気を送り続けている」ように、碑文の末尾にいう「歴史をこころに刻み、日中両国の子々孫々の友好を願」う活動は、終わりのない永久革命である。
 発電所で中国人受難者・遺族らを案内していた中国電力の現場責任者は、遺族の一人から「父達の作った発電所を末長く使って下さい」と話しかけられ、「大事に使わせてもらいます。」と答えたという。こういう顔と顔を会わせ、手と手を結び合うことの積み重ねによって「受難之碑」を同時に「友好之碑」とすることが可能となる。記念碑除幕式の翌日、中国人受難者・遺族らは、広島市の原爆資料館を訪れた。
 尖閣諸島問題を契機として日中双方の若者の間に「愛国」という「正義」のぶつけ合いによる憎しみが醸し出されようとしている現在だからこそ、草の根の交流の大切なことを痛感する。
 



1